ありがちなはなし

「ほら、どうしていいかわからないときってあるじゃない」
 わたしと彼は午後の教室にいる。わたしたち以外は誰もいなくて、なんの音もない静かな教室だ。ときどき、遠くから吹奏楽部の楽器の音が聞こえてくるけど、いまは全く、なんの音もない。ただ、わたしと彼のしゃべり声が静かにするだけ。
「たとえば、今とか」
「今? こまってるの?」
 窓を背にした彼はそうやって、静かに答えてくれる。わたしは少し安心する。こうやって離していられれば、すべて解決する気がする。わたしのすぐ先の未来にある大きな壁も、何もかもがなくなってしまうのだ。
「すこしね」
 本当に、そうだったらいいのに。わたしたちは今日をもって高校三年生になった。受験を数ヶ月後にひかえて、おびえている。もう一年もないのだ。そういう鬱屈とした未来のことを考えるとどうしようもなく気がふさいでしまう。
「ふぅん……なんで?」
 無邪気に訊かれる。彼も同じ立場なのに、それを全然気にしていないように見える。それが少し恨めしくて、ばかと言い残してここから逃げ出したくなる。だけど、それはできない。彼ともっと喋っていたいからだ。こうして喋っているのが幸せだし、今だけを見ていられる気がする。
 未来にはなんの暗いものもなくて、ただ光にあふれている。なんでもできる気がする。って思える。だけど、それは現実じゃない。
「ひみつ」
 そんなこともわかっているけど、そう思えるんだ。ただ幸せで、なんでもできる気がする。わたしは無敵の人間だ。って。子供みたいにばかで幼稚な考えだけど。
「そっか……」
 それ以上深く訊いてくることもなく、彼は黙ってしまう。ぼんやりとわたしの顔を見て、ときどき目を細めたりする。その表情がたまらなく幸せそうで、わたしも目を細め、笑ってしまう。
「ねぇ、海に行こうか」
「海?」
 唐突に、そう思ったのだ。開けっ放しの窓からは風が吹いてきて、ベージュのカーテンが揺れる。空は青くて、グラウンドはほこりっぽい。なんとなく、古びたような風景だ。
「海なんて近くにないでしょ」
 彼はそういい、わたしは即座に応答する。どうしても海に行きたいのだ。
「それでもいくんだよ。電車に乗れば二時間でいけるよ」
 海に行きたくて仕方がないのだ。そうすれば、すべて解決するような気がするから。
「でも……」
「ほら、」
 わたしは机からひょいと飛び降り、
「そんなこといわないで早く行くよ」
 彼の手を引く。男の手は骨張っていてごつごつしている。わたしの手とは大違いだ。その手を離さないように、強くにぎって歩き出す。
 きっと海まで行くのは無理だけど、それでも楽しい気がする。